苦しみの根源としてのエゴ(自我)

苦しみの根源としてのエゴ(自我)。自分は「分離した個」(エゴ・自我)であるという見方は、自分の本質を忘れた見方であって、真実はそうはなっていない。

あの人はエゴが強いとか、自我が強いという場合、それは一つのパーソナリティを言い表すときに使われる言葉ですね。

ここでの話はそれではなくて、私たち人間が抱える問題や苦しみの根源としてのエゴ(自我)についてです。

非二元のエゴが意味すること

ここで言うエゴとは何か?

エゴとは私自身という感覚のことです。

エゴとはこれが私だという感覚のことです。

自分が何者であるかを問われたとき、あなたはどのように答えるでしょうか。私たちの多くは、自分の名前は〇〇で、職業は何で、性別、国籍、こんな人生を送っているというようなことを言うでしょう。それらの事柄は、これが自分だと私が思っていることの中身、すなわち自分が同一化している事柄ですね。

- 私の名前は〇〇だ。

- 私は何歳だ。

- 私は〇〇に住んでいる。

- 私の家族構成はこんなふうだ。

- 私は〇〇に興味がある。

- 私の性格や好みの傾向はこんな感じだ。

- 私はこんな経験をしたことがある。

もっともっといろんなことが出てくるでしょう。

これらを当然の前提として生きている私のことをエゴとか自我とか呼びます。

自分はそのような人間として生まれてきて、そんな生物学的な心と身体を持った自分はいつか死ぬということ。〇〇年に生まれて、〇〇で育って、学校へ行ったこと。友だちと遊んだこと。そして今、〇〇なことを思いながら、〇〇な問題を抱えながら、今ここに、あなたはそこに座っている。この物質的な生き物がエゴです。

「分離した個」であるエゴが苦しみの元を生みだしている

そのエゴから、あらゆる人間の問題や苦しみ(個人的な苦しみ、集団的な苦しみ)が生まれてくる。そこにいるのは「分離した個」としての私です。それは私たちがこれが自分だと信じて疑いようのない自分です。私という個がいて、そして私と同じような個をもつ他者がいて(全世界に70億人!)、世界が存在している。このような世界観は、哲学で言う実在論に相当するもので、私たちの多くがあたりまえにそう思っている世界の見方です。

ところが非二元(ノンデュアリティ)は、真実はそうなっていないと言うんです。

自分は「分離した個」(エゴ・自我)であるという見方は、自分の本質を忘れた見方であって、真実はそうはなっていないと言うんです。

それってどういうことなのか?

エゴ(自我)がどんなふうに機能しているかについて、もう少し書いてみたいと思います。

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