
前回、私たちの悩みや苦しみは、自分が「分離した個」(自我)であると信じることに始まると書きました。
身体を持った個としての私、感情や考えを持った個としての私 —— これを自分だと思い込むことで、自我(エゴ)は生き延びることができます。
自我は死なないために行動している
自我にとって一番大切なことは死なないことです。死なないで生き延びる、生き続けることです。したがって自我にはサバイバルしなければという意識が常につきまといます。
今ちょうど、マスクしなくてもいいよ〜という声が上がっていても、外を歩くときでもはずせないというのもこれと関係してそうです。
自我は、自分が生き延びるためにどんなことが必要だと感じ、何を怖がるでしょうか。
自我の恐れは、肉体的な必要性からの恐れと、精神的な必要性からの恐れの2つに分けることができます。
エゴの恐れについて
◎ 肉体的な必要性
食べていくこと、収入が十分にあること、保障のある安定した仕事
有利な条件や利権など
これらを多く持てば持つほど肉体のサバイバル感は上がるでしょう。つまり安心感が
上がる。
◎ 精神的な必要性
自分に価値が感じられる、優れている、役に立つ自分であること、
周囲に受け入れられている、常識がある、多数派に属している、人気者であるなど
自我はいつも自分は何かが足りないと感じていて、その足りないものを補う必要があると感じています。
こうやって自我の立場から見ていくと、その根っこにある恐怖心のために、自分が本当に望んでいることが何であるかを知ることよりも、どうすれば安全に、周囲に嫌われずにやっていけるかということが非常に重要になってくるというのがわかります。でもこれだと空気が読めない変わり者の自分でいないように気をつけるなど、のびのびと生きることは難しかったりします。
このように自我はいつも安心や安全を求めてサバイバル活動をしています。個人レベルでも国家レベルでも。
やれやれ^^;
私たちの多くは、日常の生活において自分が感じる感情や経験、考えや行動といった中身を通じて自分が何者であるかを決めてしまっていて、自我はそこに浸(ひた)りきって、そこに同一化している。こっちだと、ちぢこまって袋小路に入って、自分が小さく小さくなっていくような方向に行ってしまいます。
これに対して非二元は、そういうコンテンツ(自我)の存在を可能にしているスペースの方に意識を向けてみるというのはどう?と呼びかけます。
自分の本質に目覚めるということ。
非二元の教えは、自分が分離した個であるという幻想(ストーリー)から目覚めることで、すなわち、思考や感情、身体を自分だと思う自我ではなく、それを見ているほう、それに気づいているほう(意識)に視点を向けかえることで、真の意味で平和でいられると言っています。そっちが本当の自分だよ〜と。