
前回、自我の根本の恐れとは、① 肉体的なサバイバルと ② 精神的なサバイバルが危険にさらされることだと書きました。
あらゆる悩みは、① 肉体的なサバイバルと ② 精神的なサバイバルのいずれか、または両方が関係しています。私たちは、自分がうまくサバイバルできている感じがしなくなったときに悩み、苦しむわけです。
悩みに上下はありませんが、会社での悩みというのは、①と②の両方にかかわってくる可能性が高いという意味で非常につらいです。もし仕事を辞めれば、①お給料が入らなくなる。家族を養えなくなるかもしれない。(肉体的なサバイバルが刺激される)また、②役に立たない自分、周りに受け入れられない良くない自分となり自己価値が下がる。(精神的なサバイバルが刺激される)
また、夫婦・恋人などリレーションシップにおける悩みも①と②の両方に関係するという意味で同じような側面があります。
悩んでいるときは、相手がわかってくれないから・・・、状況が悪いから・・・となりがちですが、悩みが出たら何のサバイバルが刺激されているか、見てみるといいです。①なのか②なのか、または両方かもしれません。自分にとって何がマズいからこんなに悩んでいるのかという視点です。心の深いところでは自分のサバイバル感が脅かされていることに気づくでしょう。
ここで大切なことは、だから上手にサバイバルしましょうということではありません。私たちがそっち(サバイバル)の方向に行ってしまうのは自我のしわざだということがわかってくると、悩み方も変わってきて、より生産的な方向に動ける可能性もでてくるということです。
自我の根本には恐れがあるということを見てきましたが、自我を自分だと思っているうちは、つまり身体が自分だと思っているうちは、恐れが動機としてあるためにそこから楽になることは、究極的には難しいということになります。
また、じゃあ、別の考え方によって見方を変えようと頭の中でやりくりしようとしても変わりません。自我はこれをやりがちです。例えば、自分はこんなことでクヨクヨしているけど、私より大変な人は他にもたくさんいると思おうとするなど。
思考は思考で変えることはできない。
実はそこには身体のもつ二義牲・両義性がかかわってきます。身体は肉体(物的な側面)でもあり、心(精神的な側面)でもあるということです。現象学者のメルロ・ポンティは「世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられている」と言っていますが、身体を使うことがキーワードになってきます。身体は常に「今・ここ」にありますから、「今・ここ」で感情の開放をすることで、心と身体は一つになる。セラピーではこれをやっています。
「知ったらおしまい」という言葉がありますが、気づきを得ることで、苦しみが終りを迎えることがあります。「ありのまま」がどうなっているのか、そこを見ていく、観察することは意味のあることだと思うのです。